「あ」
ひどい暑さだった。
買ってもらったばかりのアイスが、溶けて指にこぼれていく。慌てて反射的にそれを舐めると、横で父親が「おまえなぁ」と呟いて、ハンカチを差し出してきた。
「汚いだろうが」
受け取らないわたしを見て、父親は強引に私の手をアイスごと取ろうとする。ちょっと、と抗議すると、父親は、じろり、とこちらを睨んでみせた。
「女の子なんだから、おまえは」
「でも、わたし、おとうさん以外のひとのとこ、いかないし」
「それとこれとは、ベツ」
結局、手は彼に掴まれていく。優しくハンカチで指に溢れたアイスを拭き取るのを見て、ハンカチが汚れちゃうなぁ、と思う。父親はあらかた拭き取ったあと、何を思ったのか、わたしのアイスをそのまま舐めた。あ、と声を出すと、「掃除代ね」とよくわからない理由が返ってくる。
「チョコミント、うまいじゃん」
やっと自由になった手の中のアイスは、父親が舐めたところだけ少し形が変わっている。食べられた、と思いつつも、仕方がないので口をつける。面と向かってキスをするときよりなんだか恥ずかしい。父親はそれをじっと見ている。口元が緩んでいるのを見て、絶対にわざとだ、なんて、ちょっとだけ悔しい気持ちになる。
「すきなの、それ」
「え?」
「チョコミント、すき?」
長い足を投げ飛ばすように座って、その上にだらりと腕をのせて、首をかしげてわたしをのぞきこむ。随分とスタイルがいいひとだな、と思う。モテたのかな、おとうさん。なんか、やだな。場違いな嫉妬は、わたしにそっぽを向かせるという選択を取らせた。小さくて低い、押し殺したような笑い声が隣から聞こえた。
「……食べられるの嫌だった?」
「わたしのだもん」
「その、わたし、は、おれのだろ?」
「なによ、その理屈」
ふふふ、と笑う声がしたと思えば、彼の右手がいつの間にかわたしの右肩に回されていた。そのまま肩を預けるように、彼はこちらへ身を寄せる。
「……あっちいなぁ」
彼の湿ったシャツからは汗の匂いがしていた。服に頓着のない彼は、その何が書いてあるのかよくわからない英語が書いてあるTシャツの胸元をつまんで、うちわ代わりに雑にあおいでいた。
「……あついなら、はなれてよ」
「由美子はさ、体温冷たくて気持ちいいのよね」
「なに、それ」
「あとさ、汗もさ、人のだと冷てえよな」
「き、きたない!」
「そう?」
はは、とまた苦笑する男に、わたしはふんと唇を尖らして、それからまたアイスを口に運ぶ。
わたしの動きを、父親は何が楽しいのか、ずーっと見下ろしている。会話がなくなったので無心でアイスを頬張る。チョコレートの甘さと、ちょっとだけ爽やかなミントの味が口に広がった。舌の上に転がしたアイスは、夏の陽気と舌の熱で、みるみるうちに溶けていく。
「……由美子」
「ん?」
「ほっぺ、ついてる」
「え」
顔を寄せられて、まずい、と思わず目を瞑ると、予想に反して布の感触がした。目を開ければさっきのハンカチで彼が頬を拭っている。とれた、と呟いた彼が、ふと、不思議そうにわたしを見下ろす。
「……舐めてほしかったかあ?」
次の瞬間、彼はにやりと口角を上げて目を細めた。思わず顔がかっと熱を帯びた気がして、彼の間延びした疑問符が脳裏にこびりつく。
「外ではしねえよ、ほしがりだなぁ、由美子」
「ち、違うってば!」
「違わねえだろ、じゃあなんだそのリアクションは」
「違うもん!」
「ふぅん」
こころなしか距離を寄せられた身体が、さっきよりもあつい。夏のせいなのか、それとも。考えなくったって、わかりそうなもんだけど。
からかうのが好きな父親は、冗談だよ、と言って、それから、ひどく愛しそうにわたしの肩に頭を寄せた。大きな犬に擦り寄られているみたいだった。犬なんてかわいいものとは程遠いくせに。わたしはまた、黙ってアイスを口に運ぶ。
……アイスみたいに、溶けてどろどろになっちゃえば、おとうさんともひとつになれるんだろうか。
ふと、どこからともなく、そんな考えが浮かぶ。
「……由美子」
おとうさんが、わたしを呼んだ。
こういうことを考えると、おとうさんはいつも、まるで見透かしているみたいにわたしを呼ぶ。わたしの中で流れている彼の血が、そのまま彼に教えているじゃないかと、ときどき妙なことを疑う。本当にそうだったらいいのにと、少し思う。
「おいしいか?」
別に見透かされたわけじゃないことはわかっているけれど、掛かった声がおとうさんなことも、その声がひどく優しいのも、全てが急に嬉しくなって、わたしはおろおろしながら頷いた。そっか、とおとうさんが笑う。わたしの肩を愛しそうに抱いて、隣から顔を覗き込む。
「なら……さみしそうな顔すんなよ」
……やっぱり、見透かしているのかもしれない。
ちょっと悔しくなって、おとうさんの口にぺちゃりと残ったアイスをぶつける。おとうさんは一瞬嫌な顔をしたけれど、つけられた少量のアイスをそのまま大きな口で飲み込んでしまって、しばらく味わってから今度は口角を上げた。赤黒い舌で彼は自分の唇をぺろりと舐めとる。その仕草はなんだか蛇みたいだ。
「……おいしいでしょ」
「うん、うまい」
「ね?」
「めっちゃうまいね」
「今度食べるときは、別の味も食べようね」
わたしが遠慮がちにそう言うと、おとうさんは少し目を丸くして、けれどすぐに小さく微笑んだ。そうだな、とこぼして、突然、頬に小さく口づけするように、顔を押し付けて離れた。それが口づけのつもりかはよくわからなくて、でも、外ではしないとか言っていたから彼なりの遠慮なんだろうな、と思う。
胸に暖かな感情が広がっていく。どうしようもない愛しさみたいなものは、いつも自分の意思以上に湧き上がってくる。好きだなぁと、いつも思っていることをまた脳内で反芻するように繰り返す。すきだ、すきだ。
おとうさんはわたしを抱いたままで、遠くの景色に目をやった。セミの鳴き声がうるさいけれど、意識しなければそんなに気にはならない。彼の横顔がひどくきれいで、ずっと見ていたいなぁと、小さく思う。
おとうさん。声に出さずに、心の中で名前を呼ぶ。おとうさん、おとうさん。
すると、彼の目だけがふとこちらに動いた。どこか虚ろなその目はしばらく私を見たあと、愛しそうに細められて、また景色の方に戻っていく。
わたしの声に、いつだっておとうさんは気づく。なんだか、ずるくて、うらやましい。わたしはおとうさんの全部を知らない。半分しかおとうさんでできていないことが、少しだけ憎くなって、けれどきっと他の親子よりはずっと繋がっているはずだと、わたしは自分の中のおとうさんの部分を思い出そうとする。そうすると、お腹の奥の方の何かが、きゅ、と締め付けられる感覚がした。あ、と思う。おとうさんを欲しがったときに、いつも同じ場所が苦しくなる。欲が上がってくるのをこらえようとすれば、それに反しておとうさんが触れている肩に意識がいく。腕を回して、肘をわたしの肩に乗せるようにして、前にだらりと腕を落としている。大きな手がわたしの胸元にあって、それに気づいて少し心臓が跳ねた。
「……由美子、行くか」
隣から優しい声がした。男にしては少し高くて、角のない丸くて太い声は、なんというか、いつもどこか芝居がかった喋り方をしている。
「おまえとこうしてると、夢みたいだと思っちまう」
言葉の端を弾ませるように笑って、それでも最後は静かなトーンでそう言ったおとうさんは、もう一度私に擦り寄ってから、行くか、といった割にしばらく動かなかった。私も、動きたくなくて、じっと黙っていた。
炎天下の公園で、熱を避けるために買ったアイスがあっさり溶けてしまうような高い熱を感じながら、二人きりで、何も言わない。
この、親子を越えているのに、恋人になりきれないような、小さな歪んだ関係が、わたしにはときどき甘ったるくて、けれど、そう思えるときが一番幸せであることは、それはこの日も変わらないままだった。
ひどい暑さだった。
買ってもらったばかりのアイスが、溶けて指にこぼれていく。慌てて反射的にそれを舐めると、横で父親が「おまえなぁ」と呟いて、ハンカチを差し出してきた。
「汚いだろうが」
受け取らないわたしを見て、父親は強引に私の手をアイスごと取ろうとする。ちょっと、と抗議すると、父親は、じろり、とこちらを睨んでみせた。
「女の子なんだから、おまえは」
「でも、わたし、おとうさん以外のひとのとこ、いかないし」
「それとこれとは、ベツ」
結局、手は彼に掴まれていく。優しくハンカチで指に溢れたアイスを拭き取るのを見て、ハンカチが汚れちゃうなぁ、と思う。父親はあらかた拭き取ったあと、何を思ったのか、わたしのアイスをそのまま舐めた。あ、と声を出すと、「掃除代ね」とよくわからない理由が返ってくる。
「チョコミント、うまいじゃん」
やっと自由になった手の中のアイスは、父親が舐めたところだけ少し形が変わっている。食べられた、と思いつつも、仕方がないので口をつける。面と向かってキスをするときよりなんだか恥ずかしい。父親はそれをじっと見ている。口元が緩んでいるのを見て、絶対にわざとだ、なんて、ちょっとだけ悔しい気持ちになる。
「すきなの、それ」
「え?」
「チョコミント、すき?」
長い足を投げ飛ばすように座って、その上にだらりと腕をのせて、首をかしげてわたしをのぞきこむ。随分とスタイルがいいひとだな、と思う。モテたのかな、おとうさん。なんか、やだな。場違いな嫉妬は、わたしにそっぽを向かせるという選択を取らせた。小さくて低い、押し殺したような笑い声が隣から聞こえた。
「……食べられるの嫌だった?」
「わたしのだもん」
「その、わたし、は、おれのだろ?」
「なによ、その理屈」
ふふふ、と笑う声がしたと思えば、彼の右手がいつの間にかわたしの右肩に回されていた。そのまま肩を預けるように、彼はこちらへ身を寄せる。
「……あっちいなぁ」
彼の湿ったシャツからは汗の匂いがしていた。服に頓着のない彼は、その何が書いてあるのかよくわからない英語が書いてあるTシャツの胸元をつまんで、うちわ代わりに雑にあおいでいた。
「……あついなら、はなれてよ」
「由美子はさ、体温冷たくて気持ちいいのよね」
「なに、それ」
「あとさ、汗もさ、人のだと冷てえよな」
「き、きたない!」
「そう?」
はは、とまた苦笑する男に、わたしはふんと唇を尖らして、それからまたアイスを口に運ぶ。
わたしの動きを、父親は何が楽しいのか、ずーっと見下ろしている。会話がなくなったので無心でアイスを頬張る。チョコレートの甘さと、ちょっとだけ爽やかなミントの味が口に広がった。舌の上に転がしたアイスは、夏の陽気と舌の熱で、みるみるうちに溶けていく。
「……由美子」
「ん?」
「ほっぺ、ついてる」
「え」
顔を寄せられて、まずい、と思わず目を瞑ると、予想に反して布の感触がした。目を開ければさっきのハンカチで彼が頬を拭っている。とれた、と呟いた彼が、ふと、不思議そうにわたしを見下ろす。
「……舐めてほしかったかあ?」
次の瞬間、彼はにやりと口角を上げて目を細めた。思わず顔がかっと熱を帯びた気がして、彼の間延びした疑問符が脳裏にこびりつく。
「外ではしねえよ、ほしがりだなぁ、由美子」
「ち、違うってば!」
「違わねえだろ、じゃあなんだそのリアクションは」
「違うもん!」
「ふぅん」
こころなしか距離を寄せられた身体が、さっきよりもあつい。夏のせいなのか、それとも。考えなくったって、わかりそうなもんだけど。
からかうのが好きな父親は、冗談だよ、と言って、それから、ひどく愛しそうにわたしの肩に頭を寄せた。大きな犬に擦り寄られているみたいだった。犬なんてかわいいものとは程遠いくせに。わたしはまた、黙ってアイスを口に運ぶ。
……アイスみたいに、溶けてどろどろになっちゃえば、おとうさんともひとつになれるんだろうか。
ふと、どこからともなく、そんな考えが浮かぶ。
「……由美子」
おとうさんが、わたしを呼んだ。
こういうことを考えると、おとうさんはいつも、まるで見透かしているみたいにわたしを呼ぶ。わたしの中で流れている彼の血が、そのまま彼に教えているじゃないかと、ときどき妙なことを疑う。本当にそうだったらいいのにと、少し思う。
「おいしいか?」
別に見透かされたわけじゃないことはわかっているけれど、掛かった声がおとうさんなことも、その声がひどく優しいのも、全てが急に嬉しくなって、わたしはおろおろしながら頷いた。そっか、とおとうさんが笑う。わたしの肩を愛しそうに抱いて、隣から顔を覗き込む。
「なら……さみしそうな顔すんなよ」
……やっぱり、見透かしているのかもしれない。
ちょっと悔しくなって、おとうさんの口にぺちゃりと残ったアイスをぶつける。おとうさんは一瞬嫌な顔をしたけれど、つけられた少量のアイスをそのまま大きな口で飲み込んでしまって、しばらく味わってから今度は口角を上げた。赤黒い舌で彼は自分の唇をぺろりと舐めとる。その仕草はなんだか蛇みたいだ。
「……おいしいでしょ」
「うん、うまい」
「ね?」
「めっちゃうまいね」
「今度食べるときは、別の味も食べようね」
わたしが遠慮がちにそう言うと、おとうさんは少し目を丸くして、けれどすぐに小さく微笑んだ。そうだな、とこぼして、突然、頬に小さく口づけするように、顔を押し付けて離れた。それが口づけのつもりかはよくわからなくて、でも、外ではしないとか言っていたから彼なりの遠慮なんだろうな、と思う。
胸に暖かな感情が広がっていく。どうしようもない愛しさみたいなものは、いつも自分の意思以上に湧き上がってくる。好きだなぁと、いつも思っていることをまた脳内で反芻するように繰り返す。すきだ、すきだ。
おとうさんはわたしを抱いたままで、遠くの景色に目をやった。セミの鳴き声がうるさいけれど、意識しなければそんなに気にはならない。彼の横顔がひどくきれいで、ずっと見ていたいなぁと、小さく思う。
おとうさん。声に出さずに、心の中で名前を呼ぶ。おとうさん、おとうさん。
すると、彼の目だけがふとこちらに動いた。どこか虚ろなその目はしばらく私を見たあと、愛しそうに細められて、また景色の方に戻っていく。
わたしの声に、いつだっておとうさんは気づく。なんだか、ずるくて、うらやましい。わたしはおとうさんの全部を知らない。半分しかおとうさんでできていないことが、少しだけ憎くなって、けれどきっと他の親子よりはずっと繋がっているはずだと、わたしは自分の中のおとうさんの部分を思い出そうとする。そうすると、お腹の奥の方の何かが、きゅ、と締め付けられる感覚がした。あ、と思う。おとうさんを欲しがったときに、いつも同じ場所が苦しくなる。欲が上がってくるのをこらえようとすれば、それに反しておとうさんが触れている肩に意識がいく。腕を回して、肘をわたしの肩に乗せるようにして、前にだらりと腕を落としている。大きな手がわたしの胸元にあって、それに気づいて少し心臓が跳ねた。
「……由美子、行くか」
隣から優しい声がした。男にしては少し高くて、角のない丸くて太い声は、なんというか、いつもどこか芝居がかった喋り方をしている。
「おまえとこうしてると、夢みたいだと思っちまう」
言葉の端を弾ませるように笑って、それでも最後は静かなトーンでそう言ったおとうさんは、もう一度私に擦り寄ってから、行くか、といった割にしばらく動かなかった。私も、動きたくなくて、じっと黙っていた。
炎天下の公園で、熱を避けるために買ったアイスがあっさり溶けてしまうような高い熱を感じながら、二人きりで、何も言わない。
この、親子を越えているのに、恋人になりきれないような、小さな歪んだ関係が、わたしにはときどき甘ったるくて、けれど、そう思えるときが一番幸せであることは、それはこの日も変わらないままだった。